蛍火の杜へ

遅ればせながら見てきました。主演が佐倉綾音ちゃんと聞いて、映画自体の評判もよいみたいで、ずーっと見たいと思ってたんですよね。見れて良かった。

この映画は50分程度と非常に短いです。お話も非常にシンプルで、人に触れると消滅してしまうギンという謎の少年と蛍ちゃんとの交流がメインのストーリになってます。

この手の話は「いつギンが消えるか」あるいは「いつギンが普通の人間に戻るか」というのがお決まりのパターンでしょう。「泣ける」という話をちらほら聞いていたので、前者なんだろうなーと何となく思いながら見ていました。だとすれば、この物語は「ギンが消える」という終わりが明確に決まってて、その結末にどうやって向かっていくのか?というのがポイントになってきます。

毎年、夏になると祖父の田舎の山神の森に遊びに行く蛍。そこでギンと楽しく遊んで、次に会うのは来年の夏。毎年同じ姿で蛍を迎えてくれるギンに対して、心も身体も少しずつ変わっていく蛍。繰り返される夏休み、変わっていく蛍。それはいつか終わる日常を暗示させます。段々と上がっていく蛍の目線は、刻々と近づいていくタイムリミットの象徴。

本編では明示されていませんが、何らかの要因で「大人」とみなされるとギンが見えなくなってしまうのでしょう。それが時間によるものなのか、蛍自身の変化によるものなのか、はっきりとは分かりません。しかし、蛍もギンも、二人が会える時間に期限があることだけは分かっていました。だからこそ蛍は「私を忘れないで」と訴え、ギンは蛍に抱きつかれて消えることが「本望だ」と言ったのでしょうね。

淡々と二人の日常を描写していく中で、着実に深まっていく二人の絆がすごくよかった。それは蛍の成長が年月の重みを感じさせるということはもちろん、二人の言動からも積み重ねた思いが伝わってくるのです。出会った当初は「デートみたいですねー」という蛍に「こんな色気のないガキと・・・」みたいなことを言ってたギンが、最後の夏祭りでは「デートなんですねー」と返すようになる。抱きつこうとする蛍を棒で殴りつけるほど自分の消滅に強い拒絶を示していたのに、最後は笑顔で、むしろ消滅を望むかのように、蛍の抱擁を受け入れる。

蛍が変わっていったのと同じく、ギンもまた変わっていった。変わらなければ壊れずにいた関係。ギンが自分の思いを口にせず、夏祭りに誘ったりしなければ、また来年もいつものように会えたかもしれない。もちろん蛍だって、踏み込み過ぎなければ別れることもなかったはず。それでも、この二人は変わらずにいられなかったんだな・・・。

この話、設定とあらすじだけ見れば「自分の存在=生命を懸けて人を愛する」という感じにも受け取れるけど、そういうことじゃないと思う。そういう大げさなものじゃなく、もっとこう、変わらない日常といつか訪れる「終わり」のようなものを描いた話だったように思えます。

それにしても。終わり方がすごくアッサリしているというか、そこで終わりか!っていう感じでしたね。成長した蛍が山神の森へ向かうプロローグから始まり、蛍の回想という形で本編が進行していったので、てっきりエピローグは森についた現在の蛍ちゃんだとばかり思っていたのに!むむー、ちょっとそこは物足りなかったかも。とはいえ、いつもの場所に行ってみたら、人間になったギンが・・・!みたいな終わり方だったら脱力感が凄まじいことになっていたでしょうが・・・。

あ、そうだ。肝心の佐倉綾音ちゃんの話。いやあ、よかったですね!サンプル数が少ないので何とも言えませんが、引き出しの上から下までフルレンジで使った、みたいな蛍ちゃんの演じっぷりが初々しかった。まあ6歳はロリすぎ、現在は大人すぎ、という感じはあったのですが。ただ、中学生〜高校生の蛍を中心に声を作ることを考えるなら、多少大げさでもあのくらいになるのは仕方ないのかな。もちろんベテランの方を使えばもっと自然な声調の変化を表現できたのかもしれないけど、それを押しても佐倉綾音を使うことにちゃんと意味はあったかな、と思いました。

あの辺の蛍は、淡々とした雰囲気の中でも台詞のひとつひとつにどう感情を乗せるかがすごく大切なシーンが多くて、なるほど佐倉綾音「らしさ」というのはこういう所か・・・・などと若干キモチワルイことを考えてたり。