「メタ萌え」はアニオタだけの特権ではありません

こないだamazonからハチクロ1-9巻が届きまして、昨日ようやく読み終えました。内容としては、おおむねアニメ通りでびっくり。ギャグまでアニメと一緒とは思わなかったなー。と言うことはアニメのラストも原作と一緒*1になるのでしょうか。うーんドキドキする・・・。

さて。ハチクロで思い出したのがこちらのハルヒ評。
http://www.geocities.jp/wakusei2nd/haruhi.html

今って青春ものの群像劇って映画でも漫画でも流行ってるじゃないですか。惑星で取り上げたものの中でも『ハチクロ(注4)』とか『リンダリンダリンダ(注5)』とかあって、『ハルヒ』はそこに素直に行けない人のための学園青春ものとして受け取ってます。
 だから特にアニメの方なんですけどオタク版『ハチクロ』として楽しみましたね。

「『涼宮ハルヒ』は、ハチクロのようなオサレ青春物に行けないオタクが、『メタ萌え』を言い訳にして青春にアクセスするための作品である」という主旨で、それ自体については俺も感じたハルヒの二重構造をメタ的にうまく言い表してるなあと思うのですが、実はハチクロこそ大人のための「メタ萌え」少女漫画なんです。

おそらく対象年齢が高めに設定されているであろうハチクロ。なので読者は「青春が恥ずかしいって僕らはちゃんと分かってますよ」と言い訳をしないと、この青春ドラマにアクセスすることができないのではないでしょうか。

その傾向が出始めてきたのは、真山が就職した後くらいから。青春真っ盛りの真山をメタ的に眺める藤原デザインの面々、その構図はまさにハルヒを眺めるキョン。竹本くんの自分探しの旅にも同じ構図が表れてますが、わざわざ老教授を出してきて「こういう恥ずかしい青春に萌えるってアリじゃない?」と許しを得て初めて竹本くんに共感することができるわけです。

そして、このようにあらかじめ言い訳を与えておいてから、今まで傍観者であり「分かってる」大人だった野宮さんに、中学生のような告白をさせる。院生(?)とはいえ大学生と30超えたオッサンが中学生のような恋愛をするためには、実に8巻分の言い訳を重ねなくてはならなかったと。

勝手な偏見ですが、オタクや非モテが妄想するほど普通の人は輝かしい青春を送ってきたわけじゃないと思うのです。普通の大学で普通の青春を過ごし、普通に悩んだ挙句「もうオレも子供じゃないし」とようやく言い訳できる歳になった人たちが、ハチクロによって、そんな「酸っぱい葡萄」を許容しながらも「分かってやってるんだよ」という免罪符を手に再び青春へアクセスすることを許される。ハルヒと形は違えど、ハチクロもまた「メタ萌え」構造をもった少女漫画なんだと思います。

*1:9巻の時点では終わってませんが・・・