アイドルを信じるということ、あるいは信じないということ

今話題のすとうりりかちゃんの話をするつもりだったのだけど、考えてみたら特に推してないグループの特に推してない子が結婚発表したところで取り立てて物申したいこともなかったな、と思った。

当日は「どえらい事をしてくれたな!」とか「総選挙イベントぶち壊しやん!」とか思っていたが、インターネットの盛り上がりに反して2日経った今でも結婚発表そのものに大してそれ以上思うことはない。「オタクがかわいそう」とも思うけど、それは当人のオタクがそれぞれ消化するなりしないなりすればよくて、それを代弁して何かを語る行為に意味はないと思う。

さすがにこういう未来を1ミリも予見せずにやるほど無思慮な子だとは思いたくないし、だとすれば全てを理解してスピーチの舞台に立ったときのりりぽんの気持ちはどんなだったろうか・・・と想像すると胸がギュッとなるのも事実である。推してないとはいえ、難波では結構好きな方だったから。

個人的には、活動辞退するなり、坊主にして研究生に降格するなり、何かしらの形でケジメさえ取ってくれたらもうりりぽんを責める気持ちはない。言ってしまえばその程度の事件でしかない。

ので、この機会にアイドルの恋愛がなんちゃらかんちゃらの話をまとめておこうかなと思う。別にこれがきっかけというわけではなく、前から漠然と考えていたことではある。

「アイドルの恋愛はOKかNGか」という問題は、おそらく自分がアイドルという存在を知る有史以前の時代から連綿と語りつがれてきたテーマであろう。それだけ答えの出ないテーマなのだろうし、アイドルとオタクの多様性を象徴しているとも言える。

なので何が正解かという「あるべきファンの姿」を定義することはナンセンスだ。オタクの数だけ、もっと言えばオタクとアイドルの組み合わせの数だけファンの形があって、それぞれに違ったコンテキストがある。

みんな違ってみんないい・・・みたいなイイ話にまとめるのも一つだとは思いつつ、でも本心では正解なんてないと思っている。ある意味ではみんな正しいし、ある意味ではみんな間違っている。そもそもアイドルという存在そのものが(政治的な)正しさと正しくなさを同時に内包した存在であり、そのファンたる我々はその両方について否が応でも、自覚的にしろ無自覚的にしろ責任を取らざるを得ない。

アイドルファンに対して「どうせ付き合えるわけでもないのに」という意見は飽きるほど見かけるが、おおよそ非アイドルファンの共通意見なのだと思う。ただそんなことを言う輩は「ゲームなんてしても何も残らない」とか他の趣味にも同じことを言うに決まっているし、極端な例えをするなら「どうせ最後は死ぬんだから生きていても意味がない」という話になる。そもそも男女の関係性の到達点が「付き合う」しかないというのは想像力の欠如と言うしかない。

多くのアイドルファンは・・・いや多くのアイドルファンの気持ちなど知らんけど・・・自分の感覚としては、付き合うことが目的ではない。そりゃ「付き合って」と言われたらやぶさかではないが、付き合うために推してるわけではない。

ベタな言い回しだけど、やっぱりアイドルは「みんなのもの」であって欲しい。「みんなのもの」ということは「誰のものでもない」ということ。誰のものにもならないが故にアイドルはアイドルとしての神格を帯び、「みんな」を惹き付ける存在になる。普通の女の子なら普通に経験するであろう学校行事も、友達も、恋愛も、色々なものを生贄に捧げることで得られる輝き。

歌が好きなら歌手、ダンスが好きならダンサー、それそれプロの道がある。それなのに何故アイドルという存在を応援するのか?「彼女たちの可能性を応援している」確かにそう思う。ただ、「この子には才能がある」という感情だけで身に余る大金を総選挙に投じたりするものだろうか?おそらく、それだけでは説明の付かない何かがあるのだと思う。

もちろん、そんな生贄を捧げることなく魅力を提供できる人もいるでしょう。ただ、そこまでの人はもうアイドルである必要がないし、そういう存在になれた時がアイドルを卒業する時なのかなと思う。

その意味で「アイドルである前に人間」という言説は「わたしの前世はカエルでした」程度の意味しかない。前世は人間でしたか、でも現世はアイドルですね。アイドルと言う職業を選んだ時点で、普通の女の子には絶対に経験できないキラキラと引き換えに、普通の女の子なら普通に経験する全てを失ってしまう。その自覚がないアイドルが多すぎる・・・と言うのはさすがに残酷すぎるとは思う。ただ、その自覚のあるアイドルは強い。その覚悟ができるという時点で常軌を逸しているとも言える。常軌を逸したオタクを惹き付けるのは、常軌を逸したアイドルなのだ。

ポリティカル・コレクトネスが声高に叫ばれがちな現在、こんなシステムがやり玉に挙がるのは当然のことで、いつ規制の対象になってもおかしくない。それを成立させるための大義名分として「女の子の夢を応援する」などと言ったお題目が必要になる。結局のところ、大なり小なりオタクの中には「若い女の子の輝いてる瞬間を消費したい」という欲望があって、それを何とか大義名分によって正当化させているという危うい状況でしかない。

オタクのあり方も様々なればアイドルのあり方も様々で、しかしアイドルという存在がこういう「正しさ」と「正しくなさ」を同時に内包する存在である以上、「正しい応援の仕方」などというものはありえない。もちろん、できる限り「正しい」オタクであろうと思うけど、同時に自分の中にある「正しくなさ」についても自覚的でありたいと思う。

本格的にアイドルオタクとしてのライフスタイルを始めてから3年以上。平々凡々なオタク生活を送ってきたけど、それなりに色々な別れがあった。リスクしかないな・・・と思いながら推していた子が案の定半年も経たずに辞めていったり、この子は絶対にファンを裏切らないだろう・・・と思ってずっと推していた子がやっぱり辞めてしまったり、アイドルに「安心安全」など存在しないのだと言うことが身をもって分かった3年でもあった。

48Gにおいても恋愛スキャンダルによってアイドル生命を絶たれたメンバーが数多くいる。そんな先輩の姿を知ってなお、スキャンダルを起こすメンバーは依然として存在し続ける。かつてツイッターで「自分は処女だ」と宣言したりりぽんですら結婚発表をする、それほど恋愛というのは本能と深く結びついているのだろう。

結局のところ、アイドルを信じることに意味はない。信じても未来は変わったりしない。オタクにできることは祈ることだけだ。この幸せが一日でも長く続きますように、好きなあの子が一日でも長く、楽しくアイドルを続けることができますように。オタ活というのは祈りである。オタクの祈りが推しに届きますように。