ARIA The NATURAL 第04話「その ネオ・ヴェネツィア色の心は…」

なんか、いい意味ですっごい普通の話だった。いつものARIAならポストを回ってるうちに謎の異世界に入り込んで・・・みたいな話になるのに。

単なる観光パンフレットではない、日常の一コマとして書かれるポスト回収シーン、ウンディーネとしての灯里の役割、そして話の核を作る人間ドラマ。この世界観を与えられたら普通はこういう話をするよなっていう、実に真っ当なエピソードでした。

まあ、毎回こんなお涙ちょうだいな話をやられたら引いてしまうかもだけど、日がな一日ボサーっとしてるだけの話よりは好きかな。灯里の逆漕ぎも久々に見れたし。

  • 恥ずかしい体操禁止!・・・って多分みんな思ったよな。
  • 何で爺さんは江戸っ子なのかね。どこの国だここは・・・。
  • ポスト、川に落ちたりしないのかな。
  • 松来未祐はわかりやすいなあ・・・。
  • ラスト、ゴンドラが分岐するところで水面に移る建物がすごかった。CG万歳。

ARIA物語におけるメタ的構造について・・・?

id:corydalisさんの文(id:corydalis:20060421:1145552213)を読んでから、ちょっとARIAについて色々と考えてて、とりあえず現時点で俺がARIAに感じた違和感等々について考えをまとめておくことにします。

まず、id:corydalis:20060421:1145552213の趣旨としては

  • 美しいものをありえないほど美しく描くのは問題ではない。
  • でも現実との乖離度があまりに大きいと叩かれる可能性が。

ということのようです。俺は癒しにしろ何にしろ、カタルシスというのは共感または同調の類の感情だと思っているのね。そういう意味では、現実にありえないほど美しいネオ・ヴェネツィアの姿に癒されるためには、別のどこかに感情移入する必要があるのです。それはストーリーそのものだったり、灯里のキャラクターだったりするわけですが、話もない、灯里のキャラクターもないでは感情移入のしようもない。その点が違和感を感じる理由なのかもしれないです。

「労働の放棄」が持つ物語上の意味について

灯里たちが仕事をしないという話。社会人の癖に仕事もせず昼行灯のような暮らしをしている灯里たち。涼宮ハルヒの放送までにも*1帰ってこれないような我々サラリーマンには、確かに共感できるものではないと思います。ちょくちょく出てくるサラマンダーのエピソードも、「サラマンダーの人たちががんばっているから」灯里たちは仕事もしないで遊んで暮らせるとでも言いたいのか・・・?と卑屈になってしまうこともあったり。

ただ、物語として昼行灯が出てくる話は山のようにあるわけで、昼行灯が共感を得られないのならそんなに多くの話が作られるはずはない。

昼行灯といえば大石内蔵助や遠山の金さんだけど、この人たちは普段の怠けっぷりとヒーローとしての真の姿のギャップによってキャラクターの魅力を引き出しているんだと思います。

浮浪雲なんかはARIAと構造が似てると思うのですが、こっちでは浮浪さんはヒーローでもなんでもなく、「おねえちゃん、いいうんこしてます?」とか言ってばっかりの本当に怠け者なんだけど、浮浪の人間の大きさで人々を癒すというお話になってて、癒された人に感情移入する構造になってます*2

しかしなんで例がことごとく時代劇なんだ・・・と考えてみたら、ネオ・ヴェネツィアを江戸の町にすれば時代劇フォーマットになるんですね。「繰り返す何気ない日常」という癒し系フォーマットは、時代劇と相性がいいようです。

ARIAが癒すものは一体何か?

ではARIAはどうか。灯里はヒーローでもなんでもないただの観光ガイドなので、共感を得られるとしたら灯里によって救われるネオ・ヴェネツィアの住民という事になりそうです。

そこから考えると、無印の1話や今回の話を楽しめたのも理解できるような。誰かゲストキャラがいて、灯里の働きによってその人たちが少し幸せになる。そして見ている俺はゲストキャラに感情移入して幸せを分けてもらうと。

無印の4話と12話とか、同じ話なのにどうして感想が違うんだろうというのにも答えが出せそうです。当時の感想では「ドラマが見えてこなかった」のが原因だと思ってて、それは確かにあると思うんだけど・・・。4話では灯里は積極的に動いて(間接的にですが)誰かを幸せにすることができたのに対して、12話では終始傍観者に徹していて、癒すべき対象が明確に存在しないように見えたので共感できなかったのかなとも思うのです。

物語の中に癒すべき対象がいないのなら、一体どこに癒す対象が?・・・と考えれば、ARIAの癒す対象はネオ・ヴェネツィアそのものでしょう。つまり俺はキャラクターではなくネオ・ヴェネツィアに感情移入する必要があると。確かに、イタリア風と思えば和風、現在と思えば過去といろんな姿を見せるネオ・ヴェネツィアはまるで人の心のよう。

ただ、キャラクターであれば癒された結果の幸福が目に見える形で表れるけど、生き物ではないネオ・ヴェネツィアが癒されたかどうかはどう判断するのか。それは共感するべきネオ・ヴェネツィアに対する写像として、ARIAを見ている俺自身が幸せになったかどうかで決まるのではないでしょうか。つまり物語自体はどこへも向かわず灯里の中で閉じているけど、メタなレベルでは視聴者の共感を持って始めてARIAという作品が完成するということに。

うまくいえないけど、癒しの物語を見て癒されるんじゃなく、視聴者自身が癒される対象として、メタなレベルで作品に組み込まれているというような。

追記

長い割にはたいした結論が出なかったような?現時点における俺の思い込みにもとづく考察としてはそんな感じです。

追記2(5/1)

http://d.hatena.ne.jp/terasuy/20060430/p1

確かに魅力的なキャラが一人一人立ってはいるものの、彼女達は作品の情景を映し出すための鏡であり、彼女達自身から癒しを得ているのではなく、癒しそのものは作品のそれ、つまり情景からのものなのです。

うーん。やはり皆さん同じようなことを考えているのですね。この下のコメント欄も含めてちょっとTBしたいなー、これは。

*1:TVKは月曜25:15〜

*2:ただ俺はこの漫画はさっぱり理解できませんが。意味不明すぎ。